クラブの履歴書
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上野千秋の執念が実った 北陸最初の民間施設は…

福井スイミングスクール
福井県福井市松本1−34−15

福井スイミングスクール 北陸のスイミングクラブの歴史は意外と古い。富山スイミングクラブ(高田秀男)が昭和41年10月、金沢スイミングクラブ(大崎卯藤久)が昭和48年2月、さらに砺波スイミングクラブ(砂田光夫)、富山水泳教室(須垣久作)が設立された。いずれも公共施設を使用しての水泳指導だったが、昭和50年4月に福井スイミングスクール(上野千秋)が北陸で最初の民間施設として登場する。自前のプール建設に執念を燃やし、68歳で逝った上野千秋の半生を追いかけるが、今日に残したものは少なくない。(敬称略)

福井国体を機に故郷へ戻る

 北陸にスイミングスクールの扉を開いたのは高田秀男だ。水泳不毛とまでいわれていた富山県に、オリンピック記念の富山市民プールが昭和40年7月竣工した。それまで富山の水泳界を牽引していた高田が定年退職を向かえ、最後の仕事として水泳の普及をするために富山SCをつくったのは昭和41年10月のことだった。石川県では大崎卯藤久が(財)金沢SCを興したのが昭和48年。いずれも自治体が後押しをして、県民レベルでスイミングブームを築きつつあった。
 ところが、福井県にスイミングスクールができたのはそれから2年後。孤立無援の中、上野千秋が福井SSを興す。しかも北陸初の民間室内プールであった。時に昭和50年4月1日。上野がここにたどり着くまでには、執念にも似たドラマが残っている。
 上野千秋は大阪市の名門、桜宮高校で教鞭を執っていた。水泳部の監督を務め、東京オリンピック(昭和39年)には中野悟(自由形、早稲田大学に進学)を送り込んだ名指導者だ。中野以外にも藤木達夫(現レックス古賀)ら優秀な選手を抱えていた。そんな実績があるため、大阪市で最初のビニールで覆った温水プールが桜宮高校にできた。その上野に故郷・福井から第23回福井国体(昭和43年)の選手強化の依頼が舞い込んだ。
 上野の父親も教職にあり、同じ桜宮高校で教鞭を執っていたが、上野を大阪から福井へ赴任させる根回しをしてくれた。通常はこうした転勤はありえないが、父親は福井県の教育委員会に人脈が通じていたのだ。上野家の出身は福井市。親子で故郷を離れていたため、田畑は親類に任せきりだったが、上野はこの機会に故郷へ帰り、プールをつくって選手づくりをしたいと夢に描いていた。
 その春、上野は単身赴任で福井市へと向かう。赴任校は福井商業高校。当然、学校では水泳部監督に納まった。地元開催の国体選手の強化を任せられたが、当時はまだ屋外プールしかなく、冬場は日本水泳連盟も強化の拠点として使用していた山代温泉を使うしかない。42年、埼玉国体(川口市)では高校男子で野修が3位、高校女子で松浦範子、山下咲子が表彰台に立ち、400mリレーでも2位に食い込んだ。
 明けて昭和43年、福井国体では上野が高校女子監督に起用された。期待される選手が前年のまま残っており、上野は重責を担った。結果は松浦が400m自由形で2位、山下咲子が400m個人メドレーで優勝。400mリレーも山下・田中・岡本・松浦のメンバーで2位に入った。福井県勢は高校女子以外には、わずかに教員の部でひとりが2位に入っただけだ。いかに上野が重責を担っていたかが分かるだろう。

自分のプールをつくりたい

 福井国体の選手強化の重責は果たした。いよいよ上野が目指していた自分のプールをつくって選手養成をする計画を実行に移した。
父親の田畑は福井市の郊外に9反ある。しかし、通う選手がいなければ経営も立ち行かない。福井市内にその土地を探し当てた。それが現在の福井SSの場所だった。上野家の田畑9反と、プールをつくるために3反の土地を等価交換で手に入れる。しかし、施設をつくる資金がなかった。銀行に掛け合い、破格の1億円を申し入れた。まだ福井県にスイミングクラブの影すらない時代である。ついに上野の情熱が銀行を動かし、夢の実現に歩み始めた。
参考にしたのは、選手養成に力を入れていた東京SCだった。小柳清志が陣頭指揮を執っていた時代で、小柳ヘッドコーチ、秋永修コーチにはスイミングスクールのイロハを教わったという。
 東京SC、そして山田SCの選手強化体制を真似て、昭和50年4月1日に夢に見た福井SSがオープンする。上野は37歳を迎えたときである。福井駅からえちぜん鉄道で3つ目の「福井口駅」からわずか800mの福井SSの周りに民家はなく、寂しい環境の中でのスタートとなった。
「600人しか集まらず、苦労をしました」と夫人の加津子は証言する。「普通、高校教員でオリンピックを育てたら、そのまま教員生活をしていれば大阪の水泳界の一翼は担えるでしょう。大阪大学の出身ですから、校長を目指すとか、立身出世の道は拓けたでしょう。しかし、本人は出世には関心を示さないで、ひたすら水泳選手を育てるために自分のプールがほしかった」(長男の彰久=現社長)という。
いかにかつてオリンピック選手を育てた経歴があろうとも、福井県初のスイミングスクールである。しかも福井の県民性は競争するのが嫌い。競技志向がまだ醸成されていなかったのである。しかも上野は福井商業高校教員と二足のわらじ。スタートから壁にぶち当たった福井SSの経営だが、徐々に子供たちが増えてくる。翌年には進級テスト、振替授業、休会制度を導入し、子供たちが通いやすい環境を整備していった。これらのシステムは全国に普及し、今やスイミングスクールのスタンダードとなっている。

福井SSとKSGグループ

 昭和53年には上野の下に援軍が来た。かつての教え子、藤木達夫が東京SCを退社して身を寄せてきたのだ。運営を熟知した藤木の加入で、二足のわらじを履く上野は肩の荷がおりたが、それも永くは続かなかった。名帥・川野隆三が九産大SCを興すために藤木を引き抜きにきた。「君はまだ若いのだから、藤木君を譲ってほしい」と粘られ、藤木は九産大SCのコーチとして移って行った。そのとき上野は川野にグループをつくる提言をした。それが西日本で34のスイミングクラブが組織する九産大グループ(KSGグループ)の始まりとなっている。
選手強化の拠点を目指した上野の福井SSは、昭和55年に会員数がピークを迎えた。同時にこの年12月、新田塚SSがオープンした。上野の情熱がようやくスイミングブームを引き起こし、子供たちが水泳に通う土壌が生まれてきたのだ。福井市内にはショッピングセンター内にピアスポーツができ、6千人の会員を集める。この業態は注目され、全国に波及していった。単体が新規に出店し、軒をつき合わせてしのぎを削る時代へと突入した。 スイミングが事業として成り立つ。これを実証した上野は、昭和58年に鯖江市に2号店を進出させた。平成2年には福井校を改築し、フィットネス部門を新設。大人を対象とした健康づくりの拠点を目指した。いわば上野千秋は福井県にスイミングの道標を残したといえる。
しかし平成2年、長年の苦労がたたって病に伏すようになり、開業から苦楽を共にしてきた加津子夫人が社長業を引き受けたが、2年後に長男の彰久に社業をまかす。彰久33歳のときである。
平成9年、上野は病に勝てず68歳でこの世を去った。選手はつくれなかったが、上野の夢を引き継いでくれる指導者は育った。桜宮高校時代の教え子たち、そして福井商業高校時代の弟子たちだ。その筆頭は堂下雅晴だろう。ウォーターメイツSCに籍を置き、名匠・東島新次に学び、数多くのトップスイマーを育ててきた。その堂下は今、故郷に帰って福井工業大学水泳部の指導責任者となっている。

スイミングの道標を建て30周年

福井スイミングスクール「ようやく福井校で2千人、鯖江校で1千人になりました。これが私の目標でした」。上野千秋なきあと、残された夫人と社長業を継いだ彰久は地域の健康づくりと子供たちへの水泳指導の邁進してきた。彰久の目標達成は今年9月である。「この企業体が安定的に収益を上げられるようにしたい。先代(千秋)時代から、そのことに力を費やしてきましたから・・・。先代は選手強化をやりたかったのに、常に経営というものが付きまとい、おそらく夢の半分も実現できなかったでしょう。唯我独尊で歩んできましたから、自分の意見が全て。"政治をやるなら、商売をして苦労した方がいい"と言い切る親父でした」
 夢を追い続けたが、商売下手。孤軍奮闘をしたが、しかし間違いなく福井県にスイミングの道標は建てた。その研究熱心さは、今でも高く評価されている。一徹さを証言する一人に、福井商業高校で甲子園に32回も選手を引き連れていった北野尚文監督がいる。監督に就任して間もない頃の思い出を、タウン誌で次のように綴っているので紹介しておく。 ――当時、福商水泳部は黄金期といっていいほど、全国大会でも上位入賞を果たしていました。上野先生は「野球部が勝てない原因はパワー不足」と指摘、水泳部が取り組んでいた筋力トレーニングを教えてくださったのです。東独のプログラムを元にしたトレーニングでした。今ほど情報のない時代、これだけのプログラムを練るには本を探したり人に尋ねるなど苦労は多かったはず。その貴重なノウハウを快くいただいただけでなく、指導者としての技術、メンタル面でのアドバイスをいただきました。「がむしゃらに鍛えるだけでは能がない」。科学的かつ合理的な考えと斬新な理論に「なるほど」とうなったものです。
 新しいトレーニング方法、新しいシステムを希求していた上野千秋らしい北野監督へのアドバイスだ。
 開業当時は周りが田畑だった福井SSも、今では家が建ち並び、子供も大人も笑顔で集まる地域のスポーツ・コミュニケーションの場となっている。
浮き沈みはあったが、とりあえずの目標をクリアした彰久は、「会員の皆様の望むものは、ますます多様化・高度化してきています。常に変革を目指し、この要求に対応していきたい。これからも会員の皆様の"喜び(楽しみ)"をサポートするための方法を模索し、刷新を続けたいと思っています」と30周年を機に決意を新たにしている。


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