クラブの履歴書
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「努力をすれば必ず形になる」の信念で…

フジタドルフィンクラブナタリー
広島県廿日市市阿品3-1-4

フジタドルフィンクラブナタリー フジタドルフィンクラブ(広島市平野町)は、イトマンSS、東京の金子SS(現アクラブ)、東京SCと並び称された選手育成の拠点である。その原点は昭和43年の全国高校総体の広島開催だ。42年、選手強化のために尾道高校に水泳部ができ、田口信教、早稲田昇、本多忠らを抱える尾道高校は圧倒的な強さで優勝する。古くから水泳の歴史で広島県は中枢を担ってきていたが、この尾道高校の高校総体優勝で、関係者には「広島で育った選手を広島に残そう」という機運が高まった。「ミュンヘンオリンピックで日の丸を」の合い言葉で昭和44年、時の広島県水泳連盟・藤田一暁会長がフジタドルフィンクラブ(以下フジタDC)を 設立する。三原三中で田口らを育てた徳田一臣が監督に就任し、民間クラブで選手養成が始まった。(敬称略)

名門・フジタDCの設立まで

 昭和39年、広島県水泳連盟は会長が空席だった。広島出身の重鎮・藤田明(後の日本水泳連盟会長)が当時のフジタ工業の藤田一暁社長に白羽の矢を立てる。それには一つの条件があった。藤田明は「会長の任にある間に広島市に50mの屋内プールを作ってください」だった(藤田明著『水とともに』より)。藤田一暁は“水泳王国”を牽引するように、自ら先頭に立って巨額の募金活動を行い、国や県の補助金を引き出して広島市に50mの屋内プールをつくった。その後、昭和44年に設立されたフジタDCでは、藤田一暁が私財を投じて指導者の養成、選手強化専用プールや寮をつくり、日本を代表する選手を輩出している。最初に応えたのは指導者の徳田一臣コーチと田口信教で、ミュンヘンオリンピック100m平泳ぎ金メダルの快挙である。
 フジタDC設立の経緯を、藤田一暁は次のように回想録に残している。『私が広島県水連会長として水泳普及と強化に力を入れた4年間に、田口は日本一の選手に育っていた。田口はそのとき高校2年。私は4年の任期で会長を辞めていた。新聞で、田口が1年後には東京の大学へ進むと語っている記事を読んで、ある覚悟ができた。折角ここまで育ててきたのだから、オリンピックで日章旗を揚げさせるところまで、自分の力で育てる必要があるのではないか。そのくらいのことは水泳界に残しておきたいという欲がでてきた。そこでスイミング・クラブを作り、選手強化にのりだしたのである。その成果が田口信教と本多忠。ミュンヘンでは田口は金と銅の二つのメダルを獲得し、本多は背泳で6位入賞。これを契機に私はやるべきことはやったと、水連からは手を引いた』
 この一文は評論社から藤田明が日本水泳連盟会長時代の昭和59年に上梓した『水泳わが友わが人生』に、藤田一暁が寄稿したものである。 昭和40年代は広島県が水泳界を席巻した時代だった。43年から54年まで、尾道高校が9回、広島工大付属高校が2回の高校総体優勝を飾る。国体では少年男子が44年から53年までの10年間を勝ち続ける。そして47年のミュンヘンオリンピックでは田口信教が100m平泳ぎに金メダルを獲得した。フジタDCの存在は、広島県水泳の歴史の中軸にあり、日本水泳の歴史の1ページを飾ったことは疑う余地もない。

歴史を刻んだ強者たち

 フジタDCの歴史は徳田一臣のコーチ就任と共に始まった。その徳田一臣とは、三原三中で田口を育てた名監督である。田口は広工大付属高校へ進み、卒業するのは昭和42年。しかし、田口には東京の大学からの勧誘があったことで、一暁社長が「広島に残さなければならない」とフジタDCを起こしたのは前記のとおりである。地元に田口を残した。徳田一臣のさらなる指導が始まった。
 ミュンヘンオリンピック金メダリスト・田口を誕生させた以外にも、徳田は数多くのオリンピック選手を育てている。昭和51年、モントリオールオリンピックには連覇を狙う田口と本多忠、コーチとしても徳田一臣が乗り込んだ。しかし、本多は100m背泳ぎで予選落ち。田口は100m平泳ぎで準決勝に進んだが、2度のフライングが影響して理想のスタートができず、12位落選に終わった。
 その田口は100m平泳ぎで44年から51年まで、200m平泳ぎで45年から51年まで日本記録を更新しつづけた怪物だった。本多忠は尾道高校に在籍し、45年に広島商科大学に進んだ。背泳ぎのスペシャリストはインカレで2種目を連覇し、47年には日本室内で200m個人メドレー、日本選手権では100m、200m背泳ぎを制覇。47年には100m背泳ぎで日本人として初めて1分の壁を破った男である。
 この2人のほかに昭和55年、幻のオリンピックとなったモスクワ大会には山崎重樹、坂本弘、早稲田大に進んだ樺谷博が代表に選ばれている。いずれもフジタDC出身者。さらに昭和59年のロサンゼルス大会には坂本と奥野景介が出場している。奥野は岡山県倉敷市出身。父親からの勧めによりフジタDCで武者修行に励み、その才能を開花させている。その後、早稲田大学水泳部を牽引する立場になり、現在は早稲田大学助教授となって後進の指導に当たっている。
 オリンピックには出場できなかったが、フジタDCからは数多くの優秀な選手が出ている。主な選手を紹介すると――。
 早稲田昇は尾道高校から本多忠と共に昭和45年、広島商科大学に進んだ。三原三中育ちの早稲田は200m、400m自由形で滅法強く、尾道高校3年で日本選手権200m自由形を制する(昭和44年)。45年にもフジタDC所属で日本選手権200m自由形に優勝を飾った。
 異色の選手では飯田彰がいる。彼は昭和45年、46年と2年続けて日本選手権短距離から長距離まで自由形全4種目に入賞する離れ業を演じている。特に46年日本選手権は200m、400m、1500mで優勝。100mでは惜しくも2位に終わり、全種目制覇のチャンスを掴み損なっている。
 年代順に日本を代表した選手を挙げると、昭和48年には日本室内で100、200m背泳ぎに那和静雄が優勝。日本選手権では小野修司が1500m自由形優勝。小野は49年の日本選手権で400m、1500m自由形も制している。樺谷博は48年の日本室内で100m平泳ぎに優勝。50年日本室内では先輩の田口を100m平泳ぎで抑えて優勝している。同じ50年、泉慎也が100m自由形54秒2の日本新記録を樹立している。  51年4月の日本室内では林克哉(広工大付属)が200m背泳ぎに優勝。同志社大学に進んだが、その後を継いだのは大畠慶一。54年日本選手権で400m個人メドレーに優勝している。紹介した選手以外にも48年と49年の日本選手権で1500m自由形に優勝した小野修司、57年日本選手権で400m自由形優勝の西牟田明文(瀬戸内高校から日本大学)らがいる。

熱血コーチ、所賢一とフジタDC

フジタドルフィンクラブナタリー 今、フジタDCナタリーを率いる所賢一も志しは高い。広島県大竹市の出身で、高校を出て中央大学に進むが、水泳部の主将を務めた昭和45年にインカレで400m自由形2位、1500m3位の成績を収めている。卒業の年は和歌山国体が行われた。所は開催県強化のために和歌山県の伊都高校教員として赴任する。教員の部のメドレーリレーの優勝メンバーとなり、400m自由形でも優勝する。その翌年の鹿児島国体でも400m自由形に優勝しV2を果たした。「やればできる」と自信を持ったその所に、指導者として歩むことを決断させた男がいた。徳田一臣である。「フジタDCの指導を手伝ってくれ」。この一言で所は3年間の教員生活に別れを告げた。昭和49年のことである。
「努力をすれば必ず形になって出る」の信念のもと、所はフジタDCでの生活をスタートする。すでに実績を残す“名門”のスイミングクラブ。オリンピック選手を育てるための目標を立て、厳しい練習が行われていた。
 指導して2年目。自分が指導した選手の中から初めて日本記録を破る選手が出た。泉慎也だ。100m自由形54秒2の日本新記録を樹立。「自分のことのように嬉しかった。選手とコーチは一心同体だと思いました」と当時を語る。
 そこにたどり着くまでには、徳田一臣の存在は大きかった。優秀な選手が揃っていることで、ナショナルチームの強化合宿がたびたび行われた。当時、日本水泳の強化を率いていた小柳清の練習法を勉強することもできた。「一流選手をつくるにはどうしたらよいか」――徳田の指導法、そしてナショナルチームの指導法を貪欲に吸収していった。それが泉の日本新記録樹立へと結びついたのだった。
 広島県には当時、鶴峰治監督が指導する尾道高校水泳部とフジタDCで練習をする広島工大付属高校がしのぎを削っていた。「広島カープ(プロ野球)が優勝した(昭和54年)ころから、地元の選手を育てなければいけないと思って提言したことがあります。地元の子供を泳げるようにして、そこから選手を出そうと努力をしましたが、なかなか選手が出てこなかった」。ところが長崎宏子が秋田ACから出た。無名クラブから世界に通用する選手の出現に、当時のコーチたちは指導を熱心にやれば、素材や環境が揃えば日本の頂点に行ける選手が作れると自信を持った。所も「オリンピックや世界選手権に選手を出そうと思ったら、朝の4時、5時からコーチは努力すればいい。コーチがアマチュア意識では勝てない」と思ったという。

スイミングの使命を忘れるな

 所が指導者として10年を経たころ、フジタDCには県下の名門・瀬戸内高校水泳部の14人が通っていた。特別に強力なメンバーではない。その中に奥野景介がいた。その奥野は高校総体で400m自由形、200m自由形を制した。そのときの所を地元紙が伝えている。『技術的なアドバイスはほとんどしない。“現場でバタバタしても始まらん。精神衛生上好ましくない”と、ムードづくりに全力を挙げる。多くの指導者とは一味違った選手たちへの対応』と評している。
 休館日の毎週月曜日が自宅に帰る日。コーチ兼寮長を務める所は、朝は4時に起床し、練習内容を確認してプールサイドに立つ。この瞬間から“鬼コーチ”と化した。信念を持って選手育成に取り組んできたが、その後継者が育ちつつある。ジュニア指導の責任者に加藤和典(33歳)ヘッドコーチが就き、再び日本を代表する選手づくりを目指して指導に取り組んでいる毎日だ。
「チャンスがあれば選手をオリンピックに出せるコーチになってほしいと願っています。金の卵を見つけられるのは何年かに一人です。しかし、今のスイミングクラブの経営は、少子化問題を抱えていて、そうした環境にはない。経営が一番で、次に選手づくりだろうと思います。最近は選手クラスを廃止するクラブが多くなっていますが、それは情けないと思う。スイミングができたのは東京オリンピック後に代々木SCができ、全国でエージグループから育てて日本の水泳を強くしようと始まった。それは継承していかなければならないと思います。スイミングの根底はそこにあるのですから。子供たちへの教育的なこと、東京オリンピックで負けたときの悔しさがあるからこの業界が発展してきた。その根底を忘れてはいけない」
 所は加藤に、スイミングクラブの使命をこう教えている。「施設は古くなっても、その使命に熱心に取り組んでいれば、父兄はそれを見てくれます。いくらハードが立派な施設が来ても、大手が来ても、地域と密着してやっていれば経営はできる。よいコーチがいれば、親はどちらを選ぶかは決まるでしょう。成人会員は施設がいい、きれいなところへ行きたいと選ぶでしょう。しかし、(スイミングクラブを)継続しようと思えば、常日頃から他所よりも強いプログラムを持っていること。だから、若い人にそのチャンスを与えることにしている」
 フジタDCが継承してきた伝統は新しい世代にバトンタッチされているが、ジュニアオリンピックに毎年10人程度の選手を送り込む現状に甘んじている。かつての勢いを取り戻すにはもう少し時間がかかることは確かだ。

スイミングクラブの在り方

 教え子の中には奥野景介のように大学に残り、教鞭を執る者もいる。指導者として関わった選手たちがやがて社会に飛び出し、活躍してくれる様を見せてくれるのは、指導者冥利に尽きるだろう。だからこそ預かっている選手たちには大きな夢を、目標を持って挑んでほしいと所は思っている。
「奥野が早稲田大学の助教授になって、水泳部の監督までやってくれるのは嬉しいことですね。本人の努力もありますが、本当に嬉しい。テレビの解説者として活躍している野口智博君も同じです。本当は指導もしたいのですが、経営も楽しくなってきている」という最近の所だ。
 さて、その経営に対する所の考え方を紹介しよう。
「ジュニアオリンピックに毎年選手を送り出していますが、それを途切れさせてはいけない。それが底辺の拡大につながる。地域から見ると、いろいろな教育をしてくれて立派な子供に成長すると、親としては(スイミングクラブを)評価しますよ」
 スイミングクラブの経営は子供がベースだ。そして、高齢社会になって中高年をどれだけ取り込むかが課題になっているが、子供と大人が両立できる経営こそがスイミングクラブだと所は言う。「高齢者のために楽しみを用意しなければいけない。大人はインストラクターを選びます。よいインストラクターには人が集まります。会員の懐を心配してあげなければ長続きはしないから、会費は低料金にして、人間のハートのつながりを大事にしたクラブつくりをして行きたい」
 大手チェーンを中心にフィットネスクラブが増えつつあるが、子供たちの心身の成長を手助けできるのはスイミングクラブだ。その可能性を切り開くのもスイミングクラブだ。子供たちの生活環境が悪くなっている今、その担い手はスイミングクラブしかないと頑なに信じる所のこれからの手腕に注目したい。


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