クラブの履歴書
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"長距離の鶴岡SC"が公共施設で育んだ歴史

鶴岡スイムクラブ島
山形県鶴岡市馬場町13−1

 昭和47年8月、山形県でインターハイの水泳競技が行われた。市営プールの有効活用を目指した当時の市長は、東北の水泳界を牽引する鶴岡水泳連盟にその施設の運営管理を委託する。翌年4月、鶴岡水泳連盟を母体とする鶴岡スイムクラブが発足し、水泳普及とレベルアップを目指した指導が始まった。自治体が全面的にバックアップする公共施設を本拠とするスイミングクラブは、全国でも余り例がない。指導者の献身的努力の結果、数々のトップクラスの選手を輩出し、昨年、30周年を迎えた鶴岡スイムクラブの歴史を振り返る。(敬称略)

珍しい自治体バックアップのSC

 昭和47年8月、鶴岡市でインターハイの水泳競技が行われた。メイン会場は山形市だったが、水泳競技が鶴岡市になったのには理由がある。歴史を紐解くと、鶴岡市と水泳の関係は大正3年に遡る。現鶴岡南高校(荘内中学)OBが水府流太田派の師範を招いて第1回水泳講習会を開き、母校生徒が参加した。以来、水泳講習会は戦前戦後の2年間を除き、昭和33年まで毎年続いた。  山形県で水泳の大会が初めて開かれたのも古く、大正13年8月のこと。場所も第1回水泳講習会の開かれた鼠ヶ関(ねずがさき・新潟県寄りの漁港)だった。以来、鶴岡は県内で水泳指導の熱心な地となり、山形県だけでなく東北水泳界をも牽引する立場になった。   こうした水泳の歴史があり、山形インターハイが決まった時点で水泳を鶴岡へ誘致しようということになった。会場となったのは屋外50mプールだったが、同時に室内25mプールも造られた。インターハイ会場となったプール施設は昭和46年に出来上がったが、当時、東北で室内プールを持つ自治体はなかったから、いかに自治体が水泳を後押ししていたのかが分かる。
 インターハイの終わった翌月には、設立されたばかりのNAS(日本体育施設運営)の林裕三氏を招いて水泳教室の指導を学び、350人もの子供たちを集めた。温水プールではなかったため、水泳のOBたちが寄付を集め、ボイラーを入れてくれた。そうしたOBたちの動きに触発されて、市役所は暖房施設の予算を組む。鶴岡の水泳OBたちの熱意が自治体を動かし、さらなる水泳の普及の原動力になっていった。
「当初は温水シャワーもなく、ガスの瞬間湯沸かし器を室内に設置して水温を上げる工夫をしていた。水温は低い、室温は上がらない。冬になると湯気が立って見えないほどの環境でした」(土岐事務局長)。しかし、十分な温水装置がなかったために退会者が相次いだ。そのため、施設の有効活用と同時に子供たちへの水泳指導を進めたい鶴岡水泳連盟は「鶴岡スイムクラブ」を昭和48年4月に発足させる。
 当時の施設は屋外50mプール、屋内25mプールだったが、昨年、屋外施設を撤去し、インターハイのメイン会場は現在、駐車場として利用されている。屋内プールも老朽化に伴い平成元年に50mプールとして建て替えられた。

8年目の全国中学制覇から

   インターハイが終わった後、鶴岡水泳教室を開催して子供たちを集めたが、週末の土・日曜日の指導で、施設も「寒くて、とても水泳をやれなかった」状態だったために一人欠け、二人欠けし、最後は50人も残っていなかったという。当時、東北の水泳のリーダーを自認していた鶴岡水泳連盟・佐藤裕一理事長は、通年の水泳教室を水泳連盟の事業として企画した。その運営組織として「鶴岡スイムクラブ」を立ち上げる。翌年4月1日、クラブ員120人が参加してスタートした。  クラブ発足間もない7月には、山形県中学大会で鶴岡第三中学が男子優勝、鶴岡第一中学が女子優勝。さらに翌8月、東北中学大会でクラブ員が3種目の優勝をさらう。翌49年には東北中学大会で鶴岡第三中学、鶴岡第一中学が男女総合の頂点に立ち、順調な船出を見せた。
 全国レベルの選手が台頭したのは昭和55年。8月の日本選手権には伊藤和佳(大山中1年)が出場し、400m自由形で6位入賞を果たすが、800m自由形では惜しくも7位に終わった。
 クラブ出身者が全国大会で優勝者したのは、翌昭和56年だった。同時に、鶴岡SCが一流選手を輩出するクラブと全国の指導者に認知されたのもこの年である。その先陣を切ったのは3月の第3回全国ジュニアオリンピック春季大会(東京SC)だ。男子13−14歳の佐藤浩志が400mと1500m自由形で、女子13−14歳の伊藤和佳が400m自由形で優勝を飾る。さらに伊藤和佳(大山中2年)は、8月の全国中学(徳島県)では400m自由形を4分37秒10で、800m自由形を9分26秒38で優勝するという快挙を達成した。全国中学での優勝は、地元関係者にとっては待ちに待った嬉しい知らせだった。「全国で1位になったということで駅まで迎えに行って、花束の贈呈をしました」(土岐)という。  嬉しいことはさらに続く。その年の暮れの日本水泳連盟の中央合宿(修善寺)には、伊藤と共に白崎圭一(鶴岡工高1年)が選ばれた。白崎は8月の全国高校選手権で1500m自由形4位の成績だったが、その記録は東北出身者としては初めて17分を切る16分52秒83だった。
 中長距離の選手を中心に活躍する選手が育ったが、昭和59年4月の日本室内選手権大会で遂に日本チャンピオンが生まれる。佐藤浩志(羽黒工高3年)が100mバタフライで前年度のチャンピオン泉憲二(高槻SC)を破る57秒32で優勝。200mバタフライでも2分4秒92で2位に入る健闘を見せた。佐藤は翌60年、早稲田大学に進んで日本室内選手権大会で100mバタフライに連続優勝を果たし、61年8月の日本選手権では遂に100mバタフライで56秒12の優勝。200mも2位に入り、アジア大会代表の座を射止めた。その9月のアジア大会では、200mバタフライに2分1秒06の日本新記録を樹立して金メダルを獲得している。

全国レベルの選手の台頭と指導

鶴岡スイムクラブ この佐藤の活躍から全国大会に駒を進める選手たちは飛躍的に多くなった。しかも特徴的なことは長距離に強いということだ。「長距離の鶴岡」と呼ばれ、今もその伝統は受け継がれている。今年も日本短水路選手権(東京辰巳国際水泳場)で、土岐健一(鶴岡工高1年)が1500m自由形で東北新記録となる15分13秒58で6位入賞。鈴木徹(鶴岡工高3年)も200mバタフライで東北新記録の1分58秒93をマークする活躍を見せた。
 記録を調べると、全国レベルの大会で活躍する選手は多い。特に目を引くのは全国中学大会での活躍だ。鶴岡一中、三中と、その都度活躍する学校は変わる。通常ならば伝統ある学校に選手が集まるが、鶴岡ではどの学校が活躍するかは全く分からない。それには理由がある。市内の学校の水泳選手の殆どが鶴岡SC育ち。たまたま選手がどちらかの学校に選手が偏ることで、地域bPが入れ替わるのだ。
 その強さの秘訣は何だろう。土岐事務局長は次のように表現する。「選手コースに入っている選手が多いということ。底辺が広いんです。もうひとつ、選手というレベルに行く前の育成コースで留まっている子供たちが多いことも原因」と言う。「他クラブでは4種目が泳げるようになったら止めてしまうが、ここでは育成コースの子供たちの歩止まりがいい。その中から選手としてやりたい子供が出てくる」
 層の厚い育成コースがあり、たくさんの選手を抱えている鶴岡SC。選手コースに入る条件は「タイムで区切っていない。選手育成コースで頑張っている子供をコーチが見て、やりたい気持ちを確認した上で引っ張り上げる」。現在は子供約1800人が在籍しているが、約120人が選手コース、500人が選手育成コースに所属する。全国レベルの大会でコンスタントな活躍を見せられるのは、こうした底辺の広さがあるからなのだ。

夕刻から800人が練習に励む

 鶴岡SCが設立された昭和48年、全国には約150のスイミングクラブがあった。そのうち日本スイミングクラブ協議会(日本スイミングクラブ協会の前身)に加盟していた東北以北のクラブは、わずか4クラブしかない(1月1日付)。北海道では札幌スイミングセンター(札幌市中央区)、テイネオリンピアスイミングクラブ(札幌市手稲本町)、東北では宮城県の仙台スイミングスクール(仙台市清水沼)、気仙沼スイミングスクール(気仙沼市)である。いずれも事業としてのクラブ展開だが、鶴岡SCはどうだったのか。
「スタッフは専任で、集まった会費から給料をもらい、市役所には使用料を払えばよかった」から、すべてが賄えた。事業としては順風満帆だったといってよい。  施設は市のもの、管理運営は鶴岡水泳連盟に委嘱され、その下部組織である鶴岡SCが管理する。当然、その管理運営は自由にできるものではなかった。市が選定した市教育委員会、市体育協会、学校体育団体等の関係者、学識経験者10人から「市民プール運営委員会」が構成され、鶴岡SCが管理されていた。何やら難しい構図だが、よく解釈すれば市全体でバックアップされているクラブなのである。
 ちなみに鶴岡SCの目的は「水泳を通じて健全な人間を形成します」「水泳の技術をおぼえ自分を鍛える場とします」「水泳を通じ全員おたがいの親睦と協調性を育てます」の三つだ。したがって、スタートした頃は子供への指導のみだったが、様々な指導体制を取ることになる。昭和48年7月には短期教室だが盲学校の水泳指導を3日間行った。更に夜間に勤労者短期教室、8月には母子の教室を開いた。成人への対応の歴史は古く、49年5月には婦人教室、社会人教室が通年で始められている。この柔軟な対応は、林裕三氏を招いて運営を学んだり、昭和41年10月から富山市民プールで富山SCを主宰する高田秀男氏(故人)や、仙台SCの運営を現地に学びに行った経験からきている。
 当初はボランティアが指導スタッフの中心を占めていたが、53年からは専任のスタッフに代わった。そのときに加わったのが土岐一夫事務局長である。「それまでは年間を通じて練習できる民間クラブや公共施設は東北にありませんでしたから、専任スタッフの体制を取ると2、3年で東北大会に優勝できるようになりました。全国大会にも出場できる選手も出てきました」
 市民プールは室内50m。通常は横の25mを使い21コースになる。「それでも夕方の5時、6時になると足りない」という。800人の学童コース、選手育成コース、選手コースが入るため、コースが足りなくなる。これだけの人数が同時に館内に入るため、殆どの子供たちがロッカーを使えない。廊下、体操場、施設の中がほとんど着替え置き場になるという戦場さながらの光景が続いている。

「ディスタンスの鶴岡SC」の理由

 鶴岡市は人口約10万人の地方都市。水泳を習う子供はほとんどが鶴岡SCに通う。なぜこうした環境が出来上がったのか。「市の教育委員会は、鶴岡の子供たちの体力をアップするために"3S"で体力づくりをさせたいと考えています。相撲・サッカー・水泳です。年に一度、市の学童大会を昨年まで5、6年生が外、3、4年生が中でやって1500人ほど集まっています。ところが今年から(外のプールを撤去し)室内プールしかありませんから、5、6年生だけでやります。それでも700人ほど参加します。市が学童大会をやってくれるため、それが県の予選会となり選手が大きな大会に出て行く。中学や高校では学校対抗がありますが、部活の代わりにここ(鶴岡SC)で練習することを100%認めてもらってやっています」
 選手たちのモチベーションを上げているのは、熱心な指導者の顔の広さだ。鶴岡を訪れる水泳人は多く、日本の水泳界を支える有名クラブが次から次へと訪れる。つまり、全国を目指す選手コースの子供たちには居ながらにして情報収集ができ、モチベーションを高めることができる。強豪クラブの強化で合宿をしたり、指導者が訪れることは、選手も所属する指導者も大きな刺激となる。そうした繋がりが、鶴岡SCのレベルを保つ秘訣でもある。
 全体で2700人の会員を抱える鶴岡SC。子供たちのほか、婦人コース、社会人コース、中高年対象の健康ライフコースがある。その他に一般利用者が通う。
 土岐事務局長は昭和53年から鶴岡SCに勤務しているが、かつては選手として鶴岡SCで泳いでいた。大学を出てふるさとに戻っての水泳指導の道を歩んでいる。以来、数万人の子供たちを指導している。現在、選手養成の責任者は木村憲コーチ、40歳だ。同じく鶴岡SCで選手生活を送り、大学で鍛えられた若き指導者だ。日本代表チームのコーチとして活躍した藤森善弘コーチ(日本体育大学)と同期生でもある。
 最後に、なぜディスタンスの選手が多いのかを聞いた。「確かに長距離選手しか出ないという伝統はありますが、その理由は私たちにも分かりません。夢は日本代表になれる選手を出したい」と土岐氏。おそらく、持久力系のトレーニングが主で、真面目にコツコツ頑張る長距離タイプ選手を歴代の指導者が好んでいたためと見られる。


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