
バックナンバー 道を切り拓く金子のチャレンジ精神は今も・・・
昭和50年代、日本のトップスイマーを次から次へと送り出していた金子スイミングクラブは、04年のアテネオリンピックで2人のシンクロ選手を出した。昭和41年、東京都調布市の幼稚園に隣接する屋外プールの「金子水泳学校」が生まれて38年。競泳界でも、シンクロ界でも日本のトップレベルの選手を輩出している「金子SC」改め「アクラブ」は、創業者の強い使命感で業界をリードする経営を行っている。最近、注目されるのは高齢社会を見据えた会員対応。「失敗を恐れない」チャレンジ精神で、独壇場だった調布エリアの"競合激化"をしのいでいる。そこには創業者の経営哲学が隆々と生き残っている。(敬称略)
右 金子日出澄社長
民間プール第1号は昭和41年6月開業
金子水泳学校(後の金子SC)は昭和41年6月にスタートした。日本のスイミングクラブ第1号は昭和40年3月の代々木SC(東京)だが、その後は霞ヶ丘水泳教室(東京)、黒佐水泳教室(福岡)、広島SC(広島)など各地で設立が急ピッチに進んだ。金子SCは17番目に昭和43年設立のスイミングクラブ協議会(現在の日本スイミングクラブ協会の前身)に登録されている。これまで民間施設のSC第1号は多摩川SCとされている。その多摩川SCは昭和41年12月のオープンである。しかもSC協議会への登録番号は3番。つまり、登録番号はあくまで登録順であり、設立の順番ではない。「民間施設第1号」は室内プールを持った多摩川SCで定着しているが、実は金子水泳学校こそ自前のプールを持った民間SC第1号で、SCとしては7番目にできた。
当時の新聞を調べると、昭和41年4月16日の読売新聞東京多摩版に大きく載っていた。「個人で水泳学校」の大見出しで、私立若竹幼稚園理事長の金子佐一郎(当時38歳)が金子水泳学校を設立した経緯が紹介されている。貴重な資料なので転載しておく。
――昨年夏、市内の京王プールで母と子の水泳教室を開いたところ、父兄の評判もよく「ぜひ続けて」という希望が出た。日本の水泳がだんだん影が薄くなったことを残念に思っていた金子さんは「幼児のときから正しい泳ぎを指導して、水泳のできる層を厚くすることが水泳ニッポン再建の道。しかも泳ぐことによって子供たちの健康な身体づくりもできる」と水泳教室の継続を計画した。だがプールがない。そこで自分でプールをつくることにした。プールは金子さんの経営する若竹幼稚園の南側の敷地約四百平方bに、千五百万円の工費で、六月開校を目標に工事が進められている。規模は二十五b六コース、もちろん日本水泳連盟公認。――
そして6月1日に「金子水泳学校」の開校となった。「学童に正しい水泳を指導して水難事故防止、あわせて健康で明るい青少年の育成に役立てたい」と多摩地区で最初の民間プールは営業を始めた。そのプールは屋外だったため、小学校1年生から5年生までの健康な男女を集めたが、一般コースは6月から9月までしか開けなかった。
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| 開校当時の金子水泳学校 |
金子の歴史を彩る選手と指導者
金子佐一郎が水泳指導に情熱を注ぐようになったのには、どういう経緯があったのか。実は金子家は牧場を経営していた。地元青年団団長を務め、35歳で調布市市議会議員に当選した。
「幼稚園を開いたのが昭和41年の4月で、6月に水泳学校を開校しています。30年代に近くを流れる多摩川が汚染され、泳げなくなっていました。泳ぎを習う場所がない。それと東京オリンピックの日本惨敗がきっかけとなりました。青年団や市議をやっていましたから、青少年の教育や社会体育についても関心がありました。日大在学中に水泳をやっていて、古橋さんや橋爪さんは同期でした」と語るのは長男の金子日出澄社長だ。
その人脈でコーチを集めて借り物のプールで水泳教室を開いた。父兄の要望に後押しをされて、当時日本水泳連盟常務理事だった平賀猛を筆頭とするコーチ陣の協力を得て、金子水泳学校設立を決意したという。
折からの全国的なスイミングスクールの設立ラッシュで、会員は集まる。夏場の一般コースがメインだったが、通年の選手コースは冬場、筋力トレーニングやジプシーのように公共施設を借りての練習に明け暮れた。しかし、昭和45年に「金子水泳学校」から「金子スイミングスクール」に変え、プールには屋根が付けられた。一流選手を育てる環境が整ったのである。
オリンピック選手を次々と育てる指導環境が整う契機になったのは、それから4年後の昭和49年、育ち始めた選手を連れてアメリカ・ロングビーチSSで合同合宿を行ったことだった。1か月のホームスティで「ハイポキシック・トレーニング」を学び、日本ではまだ取り入れていないプルブイでの練習に出会った。ディック・ジョーカム氏の科学的な練習法を学んだ成果は、翌年には自由形の塚崎修治が全国SC大会優勝といううれしい結果を生み出した。その後、自由形長距離の金子洋明(現指導部長)、背泳ぎの高橋英利、バタフライの高橋清美、背泳ぎの簾内望、個人メドレーの伊東慎治、背泳ぎの三浦武彦、バタフライの平田政一など、キラ星のごとく日本を代表する選手が輩出された。
その陣頭指揮にあたったのは田中孝夫(現鹿屋体育大学教授)だった。理論派の田中は平成7年に鹿屋体育大学講師として迎えられ、今年のアテネオリンピックでは800m自由形の柴田亜衣を金メダリストに育てている。
結果を恐れないチャレンジ精神で・・・
多店舗化がすすめられた時代の昭和53年、金子SCは2号店を神奈川県藤沢市にオープンした。この年、金子佐一郎は周囲のすすめで調布市長選に立候補して当選し、2期8年を務め上げている。SCの経営者は"教育者""人格者"として尊敬され、人育てへの使命感に燃えていた懐かしい時代である。
地元では選手育成の「金子」の名前が定着している。平成8年10月、高齢化社会のクラブ展開を考えて「アクラブ」と施設名を変えた。現在、アクラブの店舗数は首都圏に6つ。いずれも水泳指導を軸に、地域の健康づくりの施設として定着している。次々と利用者の立場に立った利用制度を導入するクラブとしても有名である。
例えば、子供たちが練習を休んだとき、その欠席分を保護者が無料で利用できる「無駄無(むだむ)」。クロールで25m泳げることを目標にして、目標達成まで固定料金で責任指導する「完クロー君」制度。子供たちを対象にした1クラス3人以下の超少人数制1か月会員制度「プレミアムクラス」。さらに、子供と成人を対象にしたマンツーマンによる個人レッスン「プライベートレッスン」などの新機軸を打ち出している。
これらの発想の原点は、金子佐一郎が育んだチャレンジ精神にある。宮本久義、小森谷康一といったベテラン幹部らと若手スタッフが、自由な雰囲気の中で提案されることは「結果を恐れないでチャレンジする社風」(日出澄社長)から生まれるものだ。
さて、今年のアテネオリンピックでは、アクラブからシンクロ日本代表選手が二人出場した。藤丸真世、川嶋奈緒子である。マタニティからマスターズ、水中運動だけでなく、シンクロクラスもあるSCは全国でも珍しいが、二人の代表選手を出して銀メダルを獲得した影響で「シンクロをやりたい子供が増えた」という。「ジュニア会員の中からシンクロクラスへ移りたいと希望する子どもは60人もいました。とても全員をシンクロで受け入れることはできませんが・・・」と苦笑いの日出澄社長だ。ジュニア水泳指導、選手づくり、成人水泳、中高年者への水中運動、そしてシンクロにも高い評価が集まるアクラブは06年、設立40周年を迎える。
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