
バックナンバー 畑の中で始まった小林の水泳教室への熱き思い
| 松本スイミングスクール |
長野県松本市島内5304−1 |
松本スイミングスクール(以下、松本SS)は、長野県の水泳教室の草分けだ。創業は昭和44年5月、わずか9名の生徒で始まった。それも休耕田を借りてプールを作ったもの。「水泳指導が趣味」の小林武義はまだ20代後半。生計を立てるより、とにかく子どもたちに水泳を教えたかった。その熱意が父兄の心を捉え職を捨てて水泳指導に専念するが、紆余曲折しながらも長野県では押しも押されもせぬ牽引車として長く君臨することとなる。スイミングからフィットネスへの切り替えも先駆けとなった。類まれなその嗅覚によるところが大きい。現在は県下に5つの施設を持つ一大勢力になっている。傍ら、日本スイミングクラブ協会の要職を務めながら、信越地区を牽引してきた。その手腕は、正に実直さがあったればこそである。今回は、松本SSの苦闘の歴史を振り返る。(敬称略)
「よし、選手を作ってやる!」
小林がスイミングクラブを起こすきっかけとなったのは、20代半ばのころだった。松本市の水泳協会で役員をしていたが、国体の水泳チームの監督に推されたことが一因となる。長野県というのは松本圏と長野圏に分かれていたが、水泳は北、つまり長野圏から選手がたくさん出ていた。
ところが、小林は国体に出る水泳選手を抱えていなかった。『何で選手がゼロのところから監督を出すんだ』という声が当然のごとく湧き出す。それを聞いた小林は、「よし、選手を作ってやる!」と 負けん気を起こした。小林の水泳指導はそこから始まった。
当時の本業は、スウェーデンの商社の松本駐在員だった。「大変いい会社で、テクニカルセールスをやっていたんですが、商品を売ると必ずオーダーが来るために、セールスに行かなくてもいい。会社は売上さえ上がっていれば何も文句を言わない。だから、何をやっていても自由だった。それで子どもの水泳を教えていた」という羨ましい身分。子どもたちを教える場所は松本市営プールだった。しかし、営業成績がよかったため、東京勤務の打診が来た。のらりくらりと転勤を先延ばしにしていたが、さすがに断りきれなくなって上京を決断したのは2年後。既に松本スイミングスクールは会員を集め、動き始めていた。
子どもたちが30人ほどの小さなクラブだったが、小林は「解散をして東京へ行く」ことを父兄に伝えた。ところが父兄から思わぬ提案があった。「先生がもらっている給料くらいは、皆で出し合えば何とかなります」。その言葉で、小林は勤めていた会社を退職することになる。
自前のプールは休耕田を使って
晴れて水泳指導一本で生活を始めることになったが、小林を待っていたのは思わぬ難関だった。それまで会社勤めで得ていた給料とは雲泥の差のある収入だ。「松本の給料って、こんなに安いんだ!」と実感する。父兄たちが出し合った小林の生活費は、それまでの収入と比べると3分の1程度。当然、それまでの貯金に手をつける。1年と持たなかった。
仕方なしに再び就職する。飲料メーカーのヤクルトに就職が決まった。1日3交代の勤務だったが、「水泳指導の趣味があるので、昼間は勘弁してくれ」とお願いした。幸いにも理解してくれ、朝・晩の勤務になり、昼間は自由にしてくれた。
昼間はスイミングの指導を続けたが、昭和44年に松本市の体育課からプール使用の禁止を通達される。「確かによい選手を育てているが、市のプールは英才教育の場ではない」というのがその理由だった。
当時、松本市には市営プールしかなかった。小林は一念発起し、休耕田を400坪借り、手製のプールを造った。壁は鉄板。水が漏れないようにシートを全面に敷いて水を入れただけのプールだ。当然、夏場だけの指導しかできない。
それから2年後の昭和46年5月、屋外プールを建設した。25m×5コース。小さいながらもようやく“城”を持つことができた。学童泳力テストで全国2位の選手が出て新聞にも取り上げられ、全国的なスイミングブーム到来も手伝って会員は一気に増加した。施設を持って4年後には長野県記録が出始める。長野国体(昭和53年)のころは、県の記録の半分以上を松本SSが占めるほどだった。
負けん気の強さで、何もないところから水泳指導を始めた小林だったが、指導の成果は上がるものの、多額の借金をして造ったプール建設費の返済は順調ではなかった。当初は「つぎ込むばかり」。「クラブにはお金がない。(勤務先からの)自分の給料をクラブに入れたら、それをクラブの収入とみなされて税金がかけられた」。今でこそ笑って言えるエピソードである。
県下に5店舗のサムグループ
クラブが軌道に乗った昭和50年代半ば、小林は第2号 店を持った。塩尻スイミングスクールである。「(松本SSの)生徒が多くなりすぎてしまったので、賄い切れなくなった」ためと説明するが、それほど隣の塩尻市から通う生徒が多かったということだ。「その頃は、初期の頃に教えた子どもたちが高校を終え てウチへ就職した」という。
昭和60年の松本中央SSがスイミングスクール事業の最後の店舗となり、平成に入って次々とフィットネス事業を拡大していった。平成元年にスポーツスクェアサム(松本SS改装)をオープンすると、平成5年にサム2(松本中央SS改装)、同9年にサム塩尻(塩尻SS改装)、さらに 同13年にはサム松本(サム移転新築)、15年に長野市に進出してサム長野を設立した。今年5月には松本市内にサム石芝をオープンしてサムグループは5店舗となっている。
小林は長野県のスイミング事業を長く牽引してきた。県内初のスイミングクラブの設立に始まり、県内の選手の育成でも実績を上げてきた。日本スイミングクラブ協会の支部代表として、長く信越をまとめてきたが、数年前に病をかかえ、平成15年3月の改選で副会長の職を辞した。日本スイミングクラブ協会の次期会長に推す声もある中、副会長から監事へと一歩退いた現在の心境はどうなのか? 「これだけ大きな組織ですから、政治力も要求される。病気をして休んで、役を降りたらホッとしたね。今は自由にモノが言える。これがいいですよ。結構、気苦労があったんですよ」と笑顔を見せた。行政や他団体との折衝ごとに長く携わり、多くの難題を片付け、業界の道標を築いてきた小林は、ようやく肩の荷が下りて本業に専念する毎日。現在65歳だ。
これからの時代の使命について「目指すところは健康の発信基地だと思います。行政としっかり手を結ばないと、これからは生き残れないと思います」と警告している。
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